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〓気づき

●消えて行く中間過程に心を汚されては生けません

(釈尊の言葉 スッタニパータ編)

今の社会の人々は、自分の利益の為に交友を広げ、時には他人に尽くすこともしてしまう。

今どき、利害関係の無い友人とは少ないものだ。

自分だけの利益を追及する人間の様とは、それは醜(みにく)いものだ。

自分の心が醜くなるぐらいならば、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.75)

【感想】

まさに会社や組織にいますと、自分の評価の為に、上司の無理な指示にも尽くそうとするのが会社員の宿命・仕事かも知れません。

大学の運動部にしましても、4回生は神だと聞きます。もの凄く厳しい地獄のような上下関係です。

でも私は、それを自分の修行とするならば、大いに大切なことだと思います。

厳しい運動部に耐えた大学生は、就職活動でも評価され、入社後もやはり幹部にまで成る人が多いです。

大手証券会社なども、部長クラス以上には応援団や運動部の出身者が非常に多いです。

会社のどんな罵倒やノルマにも耐えて来た人々です。

でも、そういう社員たちの心が汚いか?と問えば、まったく逆です。心が汚れた者は、厳しい仕事に耐えることが出来ません。

純粋すぎるほどの真面目な人が多いのが実際です。だから顧客から信頼を得るのでしょう。

ここで釈尊が問うているのは、心の問題です。

会社の人間関係に疲れて、自分の心が汚れ・疲弊(ひへい:激しく疲れること)するぐらいならば、組織の中でも自分一人で歩く覚悟を持ちなさいと説いています。

だからと言って、仕事において常識の無い非協力的では、ただの愚かです。

仕事において常識的な交流・挨拶をしながら、心中はサイに成って独り歩きなサイと言われています。

*自分だけの利益を追及する人間の様とは、それは醜(みにく)いものだ。

これを見て浮かびますことは、普通の会社員が年収が上がるにつれて、変化して行く心理のパターンです。

年収が数百万の時代は、人は欲しい物だらけです。

アレが欲しい、これが食べたい、海外旅行に行きたい、性交もしたい。

とにかく飢えている人が多いです。

こういう時は、会社員で年収1000万が遠く夢のように絶望的に思っているものです。

でも実際に年収1000万に成りましても、少し欲しい物が買えるぐらいであり、あまり変わりません。

これが、年収5000万を超え出しますと、住まいも仕事環境も変わり、自動車も含めて社会の欲しい物を一通り得ます。

でも、心には何か不足感があり、それは仕事を更に頑張ることだと勘違いをした状態です。

この先に、年収が1億を超え出した人は、物欲がどんどん消えて行きます。

豪華な食事にも食欲が出ません。

そして、人を育てたい、社会に何か貢献したい、と思い出す人が多いのです。

すると、貧乏でも子供を育てる主婦は、本当は年収が1億を超えた人と同じ人生の勝利者だと、「人を育てる」という「共通結果」により言えることを、老子は示唆しています。(老子の言葉「人間は純朴さが大切」)

そこに至るまでの人生の経験の過程が違うだけで、結果は同じことだと言うわけです。

中間過程には大した意味は無いと老子は指摘します。

でも普通の人は、中間過程で苦しみ、心を汚しています。

貧乏で独身の人でも、社会に何か自分が出来る小さな貢献をする人は、霊的には年収1億超えの人と同等か、それ以上かも知れません。

人は、消えて行く中間過程を見ては、区別したり、差別したり、諦めているだけなのです。

していることが同じ良い事ならば、貧富の差も無い訳です。

町内会のゴミ掃除では、大社長も無職の人も、同じゴミ拾いをしながら世間話をします。

このあたりの話は、もう半分はアノ世の価値観に近いものです。死後の真実とも言えます。

誰もが死ぬ時は、自分一人、裸の体1つだけなのです。

金持ちだったことも、何の意味も持ちません。

だから老子の指摘は、やはり完璧に正しいと言えます。

人生の中間過程の姿に誤魔化されては生けません。

今日も、自分の心だけは醜くしないように、社会の汚い仕事も頑張りましょう。

自分の心を清浄・正常に保てれば、あとはすべてがOKなのです。何が有っても問題はありません。

Pleiades.の髭男